
自分に合った高校を。
当時中学3年生。志望校を晩秋まで迷っていた私は、高校の入試担当者に、個別で校舎案内をしてもらっていた。全体向けの入試説明会は時期的にもう終わっている。
「ここは OO 室で…。」
「ここが OO 室です。」
内装は古びていて、決してきれいとは言えない。どこか趣のある昔ながらの校舎だった。校舎案内が終わり、個別相談の為、会議室へ。中学の成績表や、模試の結果の話をする中で
「わたし起立性調節障害(OD)っていう病気なんです。だから学校を休みがちになるかもしれません。」
「ただ、病気だからと“特別扱い”しないでください。」
…と伝えた。
ここはごく普通の全日制高校。体調不良から中学校を欠席した日は多く、成績も悲惨な状態。余計な詮索はされたくない。言わずに受験する道も無いわけではないのだが…。
体調を崩して休みがちになれば、いずれ起立性調節障害であることは隠せなくなる。少なくとも、学校側には伝えなければならないだろう。その時に受け入れてもらえなかったり、病気だと伝えたことで、何か不利に働いてしまうなら、そんな学校 には通いたくない。
「そうですか。」
「まあ多少休んでも、学校にさえ来てくれていれば、勉強の遅れなどはサポートしますよ。 」
「よければうちに来てください。」
嫌な顔一つせずそう話す入試担当者を見て、私はこの高校を受験することを決めた。余裕を持って登校できる体調ではなかった。だから安心したとは言えない。それでも、明らかに他の受験生よりも、手のかかりそうな私を受け入れてもらえたようで嬉しかった。
後に受験に合格。晴れてこの学校の生徒となった。
カミングアウト。
待ちに待った高校生活が始まった。
ただただ普通の生活を送りたい、そんな思いもあって選んだ高校は全日制。とはいえ私は起立性調節障害だ。季節や天候、時間帯、日々の行動だけでなくストレスにまで体調が左右される。中学生から高校生になり、環境の変化に体がついていかず、悪化するリスクだってある。症状を隠し通すことは、不可能に等しいだろう。一生懸命に取り繕っても、迷惑をかけてしまっていると感じることも珍しくはない。
申し訳ないと思いつつ、それも私という1人の人間として受け入れてほしい。でも腫れ物を触るような扱いは受けたくない。 “特別扱い”されたくないのだ。
1~2か月たったある日。
「起立性調節障害っていう病気ですごく疲れやすくて」
「体調も不安定だから、いつ学校来れなくなるかわからないんだよね…。」
親しい友達にそう伝えた(…と思う)。1人ずつ、1人ずつ。満を持してのカミングアウトだ。特にきっかけはなかった。人間関係ができてきた事や気温が上がると、毎年体調が悪くなる事も、きっかけにならなかったといえば噓になる。だが、伝えるタイミングが無かったというほうが大きいだろう。入学早々「病気なんだよ」なんて言えば気まずい雰囲気や重たい空気になってしまったり、周囲から距離を置かれるかもしれないし、「病気の子」というレッテルを貼られた状態から友達関係を築くのはなんか嫌だ。私という人間と、色眼鏡を通す事なく関わってほしかった。
幸いにも、伝えたことで“特別扱い”される事はなかった。ほとんど休むことなく、登校できていた事もあったのだろう。今まで通り接してくれた友人たちには感謝しかない。
真夏のある日。
蝉たちの声が賑やかで、痛いほど日差しが照り付ける。みんなと同じことができるのが嬉しくて、中学校では味わえなかった学校生活が楽しくて、特別扱いもされないから居心地よくて。この日々を手放さないために多少しんどくても無理するなんて当たり前だった。
そんな生活が続いたある日…。
気付けば体調が悪化していた。学校を休むこともたまにあったものの、出席日数はもちろん、単位と格闘することもない。とはいえ、私が在籍するのはごく普通の全日制高校。周りにいるのは、毎日学校に通うなんて当たり前と育ってきた人たち。
「大丈夫?」
「頑張って」
はじめはそんな風に声をかけられることが多かった。聞こえてくるのは、私のことを気遣う言葉や心配する言葉ばかり。だが、休む日数がさらに増えると周囲の態度も変わる。
「なんで学校来れないの。」
「家で何して過ごしているの。」
「勉強、大丈夫?」
学校に来れない事、そのものを疑問視されたり
「朝起きるのがつらいなら、起きるのにかかる時間考えて、早起きしたら学校来れるんじゃない?」
「午前中しんどいなら午前3時とかに起きて、体調整えてから登校して、帰ってすぐに寝れば良いよ。」
と実現不能なアドバイスや、甘えだと心無い扱いを受けることもあった。
休まずに学校に行きたい。しかし、体調は一向に回復しない。日々の頑張りが体への大きな負担となり、さらに体調が悪化するという悪循環。どうして良いのか途方に暮れていた。そんな中、友人たちにかけられる言葉に、励まされることもあれば失望することもあった。
それが仲の良い友人であれば尚更だ。
”伝える“という選択。

起立性調節障害について周りに伝えたことに対して後悔はない。たまに休む程度なら「病気のせいだ。」と説明できるし、余計な心配をかけなくて済む。
例えば「こういう時は体調を崩しやすい。」とか「疲れやすい。」など、周囲に具体的な対応を求められるものは伝えたときのメリットのほうが大きい。逆に、大抵の人は少し頑張れば苦にならないものや、症状を想像することさえ難しいと思われるものほど理解を得るのは難しかった。
病気と言えば風邪やインフルエンザなど、数日で治るものを指すことも多い世代。ましてや普通の全日制高校に日常生活に支障をきたすほどの持病を持つ人は多くはいないだろう。私の場合、長い間体調不良が続き、その体調にも波があってなかなか、完全に回復しない。よくなったと思えばぶり返し、日々の行動や天候、時間帯にまで左右される。そんな状態を経験したことのない人たちにとって本当の意味での理解は難しいかもしれない。
学校面では、単に不登校と言われることも無く、症状のほとんどを担任の先生に把握してもらっていたが、悪く働いたことは1度もなかった。また、先生方も多忙だというのに、休んだ授業分を後から見てもらえたりと勉強面でのフォローは手厚かった。
“「起立性調節障害」のことを「伝える」のか「伝えない」のか。”
“「起立性調節障害」のことを「誰に」「どこまで」つたえるのか。“
なかなか答えの見つからないこの問題に葛藤している人も多いだろう。「怠けている」、「やる気がない」などと心無い言葉をかけられ、体調不良を訴えても信じてさえもらえない。自分自身、起立性調節障害を経験するまで完全には理解できなかったであろう症状の数々。だからこそ、そんなことを言う人の気持ちさえもわかってしまう。
伝えたところで何が変わるのかと言えば、それこそ自分の気が済むだけかもしれないし、学校側や友達がそれによってなにか対応や配慮をしてくれるかもしれない。”特別扱い“されるかもしれない。
どれだけ一生懸命に悩んでも、考えてもそれはあくまで推論でしかない。(そんな中、親子でも親友でも相手が誰であれ勝手に伝えたり、伝えるか伝えないかを強要するなんて事は、あってはならない。)自分にとって良いように働くか、悪いように働くかは、症状の重さや周りの環境などによっても変わってくるだろう。結局のところ伝えてみないとわからないのだ。どんな結果であれ、各々の答えにたどり着ければと思う。
